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実習   特科4期 古市 幸昌

 昭和20年4月20日、私は学校からの実習先の通知で日本郵船神戸支店に向かいました。神戸駅からの市電通りの両側は前日の空襲でがれきの山になっていましたが海岸通りの日本郵船は幸い無事でした。
 早速、樽安丸に乗ることになり、会社のすぐ前のメリケン波止場から樽安丸に向かうサンバン(Sampan通船)を教えられて、それに乗りました。当時、私は15才になったばかりで西も東も分からない訳ですからサンバンが最初に寄った船のタラップを登ったら、大連汽船の長山丸(3938トン)というわけで帰りのサンバンを回してもらって、元のメリケン波止場に戻されてしまいました。
 次の便のサンバンで、何隻かの船に寄って今度はまちがいなく目的の樽安丸のタラップを登りますと、さきの長山丸よりはボロ船に見えましたがずいぶん大きな船でびっくりしました。トン数は10254トン、元は英国のホルト汽船のTalthybius号と呼ばれた貨物船で開戦後間もなくシンガポールのエンパイヤドックに係留中日本軍の攻撃でいったん沈没しましたが。昭和17年の暮れに日本軍の手で浮揚され修理された船です。(本船は後にのべるように、大戦中2度沈没しましたが、その度に浮揚され、戦後は再び元の船主の手に戻るという極めて珍しい運命をたどりました。)
 無線室はボートデッキのいちばん前で、丸窓は鉄板で塞がれ壁は鉄板の外側がセメントで固められており機銃の弾丸くらいではビクともしない頑丈なものでした。無線部には、局長の梶山さん、次席の在田さんのほか、2、3日前に乗った学校同期の安藤勝教君がいて、先に乗った安藤君が三席で、私はアップさん(Apprentice 実習生)という訳で、ずい分差をつけられてしまいました。
 部屋も、私は員外機関士(横川さん、西村さん、岡崎さん、いずれも神戸高等商船の卒業生)との4人部屋でした。部屋はきゅうくつでしたので、ほとんど1日中無線室にいることになりました。船長は、アップさんは無線室が部屋かねと笑っていました。2、3日して陸軍の連絡将校として、無線講高等科卒の河合さんが乗船され(2ケ月ほどして少尉に任官)何もすることもないのでワッチに入りましょうと言われて一緒に勤めました。
 当時、沖縄の地上戦は最終段階に入っており、戦艦大和も4月7日に沈んでいたのですが、私たちは、連合艦隊は無事で反攻の時を待っていると信じていましたが、ドイツも間もなく降伏することになります。乗船して2、3日して神戸に、また空襲があり川崎ドックに爆弾が落ちるのを船上から見られました。
 2、3日して門司に回航、以前に客として乗ったことのある大連航路の吉林丸2783トンが港内に見えていました。そこで、バンカー(石炭)をいっぱい積んで4月29日当時は天長節といいましたが大連に向かうべく出港、途中釜山に寄港しました。釜山では、さきに、まちがえて乗ってしまった長山丸も岸壁で見かけましたが、同船は、5月17日黄海で魚雷に当たって沈没しています。門司で見かけた吉林丸も5月11日神戸沖で触雷沈没しています。
 5月1日、いよいよ大連向け釜山を出港したところ正午ころ韓国の木浦沖でバリバリバリと突然もの凄い音がしてB-29の攻撃をうけ、爆弾は当たりませんでしたが機銃掃射で司厨員1名が負傷、早速暗号で、その旨発信しましたら間もなく、駆逐艦が接舷して負傷者を収容してくれました。
 学校では、軍通信の時間があり、略数字いわゆるノフラ(1がトトツーツー、2がツーツートト、3がトトト…)を練習していましたので特に困ることはありませんでしたが、扱う通信は防空警報(いわゆるソラソラソラ500kHz)および新聞(JJC周波数MAMと同じ)以外は100パーセント数字の暗号でした。いちばん大事なのはMAM(潜水艦情報および航行警報)で敵潜水艦の攻撃のあった位置、潜水艦の発信した電波の方探による推定位置および機雷による港湾の封鎖、掃海水路の情報etcで、毎日数回、長波では39kHz、短波は4Hz、6MHz、8MHz 等で放送されており、何しろ私たちの命にかかわるものですから一生懸命に受信したものです。これらは全部暗号(通常サ暗号)で番電(受付時刻)で乱数表のページと位置が決まり作成は加算、訳文は引き算してその結果を換字表で訳すのですから大変です。
 航海中は30分おきにブリッヂから船の位置情報を聞いて、ワレ、ライゲキヲウク、チンボツノオソレアリ、イチ○○○○といったものを種類別に用意して暗号化して机上に並べ、30分おきに更新して遭難に備えておきます。5、6月になりますとMAMの情報量もたいへんなもので私は1日中無線室にいて受信と訳文に追われていました。
 暗号書は、鉄の重りを入れたキャンバスの袋に入れてありいざというときには直ちに海中に投棄することとなっており、暗号書の事故があるとときどき暗号書が新しいものに変更されるのですが、これらの通知は、さきのサ暗号ではなく天暗号といって、割り箸のような棒に乱数を貼って、この割り箸の並べ方によって乱数が変化しますので、訳文はたいへん面倒のものになります。これらの暗号書は海軍武官府で受け取ってきます。
 気象情報ももちろん暗号です。今のようにラヂオで天気予報があるわけではありませんのでウナハラ(のちのJMC)を受信して、また気象用の乱数表と換字表を使って訳文しなければなりません。天気図を作成するには、気象実況を受信しなければなりませんが、実況は省略して、概況のみ受信することが多かったように思います。ウナハラは、長波は91kHz、短波はMAM同様4、6、8MHzで放送されていました。無線機は、すべて日本製の新しいものでしたが受信機といっても、高周波増幅1段の4球オートダインで、今から考えるとお粗末なものでした。長波はいつでも安定して受信できるので、よく聞いていましたが、スピーカからの音は、短波はピーピーと聞こえますが、長波はプープーと濁った音で聞こえました。受信機の電源は、ヒーター(A電源)プレート(B電源)ともバッテリーで、2組の電池を充放電させて、交互に使います。電池の保守ももちろん末席の通信士の仕事ですからたいへんです。現在のようなメンテナンスフリー(補液しなくてよい)ではなく、B電池は1組が何10個もあるのですから。
 送信機の電源は、船内電源(DC100V)で500Hzの高周波発電機を回して使用するのですが。予備送信機は、これまた24Vの電池で同様に高周波発電機を回しA2電波の高圧電源はこの脈流を使用して、変調回路はありませんでした。当時は、電波管制が行われておりキイを叩くことはほとんどなく、乗船中送信機を使用したのは、さきの機銃掃射を受けた時くらいです。
 空襲のあった翌日は、韓国西岸を北上していた訳ですが、珍しく日本の飛行機が上空を護衛してくれて心強く思ったものです。
 5月の大連は、さわやかで内地とは異なり、食糧なども豊かで戦争など感じられない有様でした。積荷は大豆、豆かすなどをドングロス袋に入れたもの約13000トンで、大豆1袋を失礼して、ボイラーの石炭でスコップの上で炒ってもらってオヤツにしました。
 5月20日ころ大連を出港、途中釜山に寄港、関門経由神戸に向かう予定でしたが、関門港は機雷で封鎖されていて能登半島の七尾港に向かうことになり40年余前の日本海海戦の現場を5月27日の海軍記念日の当日に通過しました。初夏の日本海はほんとうに美しい紺碧だったことを覚えています。ところが七尾港も機雷が投下されて入れないということで近くの飯田湾に仮泊しました。
 飯田湾では、こんな大きな船が入ったことは、開闢以来初めてということでタライ船に乗った子供や村人が集まってきて、その内、小学校の団体が見学に見えるやら、獲れたてのイワシを積んだ漁船が来るやら船はにぎわいました。
 セカンド・オフィサーと小学校の先生とのロマンスも芽生えて、その後結婚されたとも聞いています。飯田湾の海は美しく、船の周囲を泳ぐのも楽しく、一回りすると350mはありますから、やっとの思いで回ってみました。
 6月中旬になって、七尾港の掃海が終わったので、七尾に入港、1万3千トンの大豆と豆粕は揚げ荷され、みなさんのお宅にも配給されたと思います。
 6月30日舞鶴に回航することになり、1500mくらい前方を掃海艇が先導で出港したのですが、港外で触雷、機関室に浸水したため応急処置をして沈没は免れましたが曳航されて七尾港に戻りました。
 しばらくして、舞鶴に回航、舞鶴港は軍港らしく、狭い港口を入っていきますと左手の岸に、昭和17年6月日米交換船として、浅間丸とともに従事したイタリヤ客船コンテベルデ号が赤茶けた姿で乗り上げていました。港内では毎朝、駆逐艦や海防艦がラッパを鳴らして軍艦旗掲揚を行っており、平和な軍港風景でしたが、この頃から夜間空襲警報が発令され、灯火管制の中、米軍機の爆音を聞くことになりました。灯火管制と言いましても、港内の病院船の氷川丸はこうこうと灯りを点け、赤十字のマークを、はっきりと表していましたからなんともおかしな風景です。
 しばらく時間がありましたので、福井の田舎に帰りましたところ、その間7月30日舞鶴港に艦載機による大空襲があり、船首付近と3番ハッチに破口、また、船橋付近は大破炎上し浸水のためかく座沈没、船長他2名の乗組員のほか海軍の警戒隊の方々は船橋の25mm二連双2機の機銃で必死に応戦されて9名が即死、そのほか多数が重軽傷されました。
 田舎から戻った私は、かく坐している本船を見てびっくり、聞けば助かったみなさんは東舞鶴国民学校にいるとのことでしたが、そこには無線部では局長さんのみで、次通の山口さん(在田さんは徴兵のため交替)、同期の安藤君、連絡将校の河合さんの姿はなく、病院に入っているとのことでした。
 そこで、わずかばかりの手当と罹災証明書、海軍の帽子、作業服、革靴を支給されて、私の実習は終了しました。
 その後、安藤君とは会っていません。学校の名簿にも消息不明となっており、いまだに心残りになっています。実習では同期の木村源之助君が青函連絡船で亡くなっています。日本郵船戦時船史という立派な本がありますが、そこには樽安丸の写真もなく、当時の乗組員名簿94名には、私や安藤君の記載はありません。

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